夢の内にも      後編



「何かわかったかなぁ・・・」

房良に強く言われた事もあり、セイは半蔀(はじとみ)や板戸を閉め
下ろした御簾の中にいた。
良順からの知らせがあれば必ず教えるから、という条件で、房良が
現れるまでは邸で大人しくしている約束だったからだ。
部屋の外には義豊が控えているはずで、どう言いくるめられたのか
この家の家司も警護の者達も彼の存在を容認している。
やはり殿上人たる房良の力が働いているのだろうか。
何しろセイの父であった玄馬よりも現在の房良の方が官位は上なのだから。

「ふぅ・・・」

小さな溜息と共に、室内を朧に照らしていた紙燭の光が揺らいだ。
いつも傍らにいる白猫が部屋の左奥に向かって牙を剥いたのに驚いて
はっと振り返った。
頼りない灯りでは届かない塗籠の入り口あたりから黒い人影がずるりと湧き出す。

「なっ!」

驚きを押さえつけて姫君にはありえない身軽さで御簾を潜ったセイは、
男と距離を置いた。
御簾越しにしか見えないが、その男がニヤリと唇を吊り上げた事は確かにわかった。

「何者ですっ! 人を呼びますよっ!」

「私は怪しい者ではありませぬ、姫。どうか姫に焦がれる哀れな男と思し召して
 一夜の情けをかけてはいただけませぬか?」

何の変哲も無い夜這い男の定型句である言葉を男が口にする。
セイはそろりそろりと後ろへと下がった。

「姫・・・。貴女は私の傍が相応しい。貴女も、貴女の持つ大いなる宝力も、
 その価値を知る者にこそ与えられるべきなのですから。
 姫、貴女は私のものとなるべきなのですよ」

猫撫で声・・・という言葉がある。
セイの機嫌を損ねた兄や姉が意地っ張りの妹を宥める為に時折使っていたけれど、
これほど怖気を誘う声など聞いた事が無かった。
ねっとりと絡みつく妄執が声音の形を取って、耳から入り込もうとするようだ。
表現しがたい嫌悪感が背中を這い降りてセイが悲鳴のように声を放った。

「お断りいたしますっ! 出て行ってくださいっ!」

セイの叫び声を聞きつけたのか義豊が板戸を蹴破って飛び込んできた。

「どうされまし、っっっ!」

言葉の途中で御簾の向こうにいる男に気づいた義豊がセイを背後へと押し込んだ。

「あれは右の将監、藤原恒秀殿。・・・いったい、どこから?」

房良の従者をしていれば貴族の顔の識別はつく。
内大臣の身内という恵まれた立場でありながら日頃の素行の悪さと能力の無さから、
出世争いでは房良に数歩遅れている男と記憶している。
けれど恒秀個人の事情など今は問題では無いと義豊は首を振った。
自分はずっと部屋の前にいたはずで侵入者を許した覚えなどない。
けれど確かに目の前には男がいる。

「塗籠から・・・」

男から吹きつけてくる歪んだ気にセイの身体が小刻みに震えている。
それをチラリと見やって義豊が吐き捨てた。

「姫さんが部屋を空けたのは夕刻の僅かな間だけだ。その間に忍び込んで、
 じっと機会を伺ってたってことか。随分気の長ぇ話だよなぁ」

いきなり変わった義豊の口調にセイがきょとんとその背を見上げた。
その気配を感じたのか僅かに振り向いた義豊がニヤリと笑う。

「総司と歳三ってのは、こんなもんなんだぜ。そんな豆狸みてぇなツラしてねぇで
 今のうちに馴れとくんだな、姫さんよ」

くくっ、と漏れた稚気に満ちた笑いが風変わりな青年を思い起こさせ、
セイの心に僅かながら余裕を生んだ。
余裕は震えを止め、冷静な思考を取り戻させる。

「人を、呼びますっ!」

義豊が蹴破ったままだった板戸は半ば外れた状態になっている。
そこから悲鳴を上げれば邸の警護の者が飛んで来る事だろう。
そう考えたセイが背後を振り向こうとした。

「それは、困るな・・・」

低く地を這うような声と共に白い何かが義豊とセイの脇をすり抜け、
板戸の脇の壁に張り付いた。
白い何か、それが呪言の書かれた札だという事にセイが気づく寸前に、
短い呪が唱えられた。

「オンッ!」

恒秀の声と同時にピシリと四方から圧迫感が迫る。

「てめえっ、何をしやがった!」

義豊の怒声に再び男の唇が歪む。
それが笑いの形なのだと思い至ったセイが眉根を寄せた。

「外との繋がりを絶った・・・と言えばわかるかな。ここは閉ざされた空間。
 お前達に助けは来ない」

「なっ!」

セイが背後に走り部屋から出ようとするが、開け放たれているはずの外への空間に
眼に見えぬ遮蔽物があるかの如く外へ出ることが叶わない。

「誰かっ! 誰かいないのっ!」

声を張り上げようとシンと静まり返った室内同様に外部もまた
いかなる音も響かせてはこなかった。

「くくくっ、無駄だと言っているものを。聞き分けのない姫君だ。
 そんな童のような愚か者には仕置きが必要と見える」

懐からもう一枚の札を出した恒秀が、それを無造作に床に放り投げると
黒い煙が朦々と立ち上り、ずるりと中から青黒い手が、足が、体が、
まるで押し出されるかのように姿を見せる。

「なんだ、こいつ・・・気色悪ぃ」

いつの間にか腰の太刀を引き抜いていた義豊が刃先をそちらに向けながら
小さく舌打ちをした。
それも最もだろう。
かろうじて身に纏っているボロボロの狩衣から覗く青黒い皮膚は、どう見ても
生者のものではない。
ドロリと濁った瞳はどこを見ているのか判らぬほど意思というものを感じさせず、
だらしなく半分開かれた口内はまさに今人を食らってきたかと思わせるほど赤い。
異様に伸びた犬歯だけが白い輝きを放っているが、それすらも呪われた剣のように
不吉にギラリと灯りを弾く。

「どうやら化け物らしいしな。遠慮無く片付けるか。姫さん、下がってろよっ!」

言葉が終わる前に義豊が振り上げた太刀が空を切った。
渾身の力で振るわれた太刀が生気の無い者に避けられた事に義豊が目を瞠った。
信じられない反応で相手が避けたのだ。

「ふふっ。剣餓鬼よ、存分にやるがいい」

自分の太刀を投げ与えた男が壁際に下がり、義豊と剣餓鬼と呼ばれた者の
打ち合いを観戦する体勢になった。

「見世物じゃねえ、ぞっ! くそっ!」

防御を考えない攻撃ほど性質の悪いものは無い。
しかも名の通り、剣の腕だけでも義豊より上手と思える化け物なのだ。

「くっ!」

息が上がるほどに打ち合っても互いに致命傷を負わす事が出来ない。
むしろ相手は痛覚も疲労も無いかのように向かってくるというのに、
義豊は全身に受けた傷とそこから流れる血のせいで既に限界が見えていた。

(こうなれば一か八かだ。)

片腕を犠牲にしてでも相手の太刀を持つ腕を落としてやろうと、義豊が
捨て身の攻撃に出た。
ここまで防御を考えず、ひたすらに攻撃に徹していた剣餓鬼だったが、
さすがに太刀を持つ手は守りたかったというのか大きく背後に飛び退って
義豊との間に距離を開けた。

「きゃあっ!」

その間隙を縫ったようにセイの悲鳴が上がる。
慌てて振り返った義豊の目に、恒秀に抱えられたセイの姿が映った。

「てめえっ!」

そちらに向かおうとした義豊を剣餓鬼が阻む。

「くくっ、宝力を身に秘めし姫君は私のものとなる。これほどの幸を利用せぬなど、
 左の将曹も典薬助も愚かな事だ」

それまで腕の中から逃れようと暴れていたセイが、その言葉を聞いた途端
ピタリと動きを止めた。

「まさか・・・貴方が私の父と兄を?」

凍りつくような視線を向けられても恒秀は歯牙にかける様子も無く答えた。

「姫の兄上は河原者の悪党が、父君はどこぞの外法師が手を下したのではないかな」

兄を襲った者が悪党と呼ばれる社会のはぐれ者である事は誰もが知っている。
けれど父の死が病で無かった事など、まして外法師による呪殺だった事など
関わった人間以外知りようも無い事だった。

「お、前がっ!」

抑え込まれていた腕を力任せに引き抜いたセイが、男の頬を思い切り叩いた。
幾ら奇異な行動が囁かれる娘とはいえ、深窓の姫君が男に手を上げるなどと
予想もしていなかった恒秀は叩かれた頬を押さえて呆然としている。
けれど我に返った途端、悪鬼としか言いようのない形相へと変化した。

「この痴れ者がっ! そなたも剣餓鬼の贄になるがいいっ!」

セイの腕を掴み、そのまま剣餓鬼と義豊の間に放り込もうとしたその時。


――― ドンッ!

空間が大きく揺れ。

――― パシィッ!!

濡れた布地を地に叩きつけたような鋭い音が響いた。


「お待たせしましたね・・・」

先程セイがどうやっても出られなかった出口から房良が現れた。
背後から続いた一が短い呪を呟く。

「陽、来」

ふわりと浮かび上がった光の珠が天井近くから薄暗かった室内を明るく照らし出した。

「遅ぇぞ、総司」

「すみませんね。中の様子は外から見えていたんですけど、奇妙な結界が
 張ってあって入れなかったんですよ。一殿が一緒にいてくれて助かりました」

凡庸な武官の恒秀に結界を張ったり妖物を召喚する能力は無い。
恐らく雇った外法師の術なのだろう。
陰陽寮の管轄から外れた市井の陰陽師や呪師は公に禁じられている呪いや
呪殺を請け負い外法師と呼ばれる。
いくら房良でも呪術を相手にすれば分が悪い。
けれど結界に阻まれて苛立つ房良の隣で、事も無げに一が相手の術を解いた。
誰かの術を破るには、相手を大きく越える能力が必要だという事程度は
房良も知っている。
一の陰陽師としての能力の高さを、噂だけではなく身をもって理解した。


「ああ、そんなにボロボロになってしまって。らしくないですねぇ、歳三サン」

揶揄を含んだ声音に義豊が実に嫌そうに顔を背けた。

「痛みを感じねぇ野郎相手に、まともに戦えるもんかよ」

「そうですかねぇ」

可笑しげに呟きながら房良がセイの身を恒秀から引き離した。
絶対の自信を持っていた結界をたやすく破られた事が信じられなかったのだろう。
現れた房良達を見つめたままで固まっていた男がその時になって
ようやく我を取り戻した。

「左近衛少将っ! なぜここにお前がいる!」

すでに空になった手を振り回さんばかりの様子に、腕の中のセイの髪を撫でながら
房良が侮蔑の笑みを向ける。

「貴方の事は後ほど。まず私には片付けるべき事がありますから」



身体の自由を得たセイを促すと義豊の元に駆け寄り、着物の袖を破って
孤軍奮闘していた男の傷から流れる血を拭き取り始めた。

「ごめんなさい、ごめん・・・なさい。私が、何も・・・できなかったから」

目の前で傷を負ってゆくのを見ている事しか出来なかった事が、ただ悔しい。
途切れ途切れの言葉から強い悲嘆が伝わってくる。
その様子に眼を細めた義豊が、セイの頭を軽く叩いた。

「血を見るだけで卒倒する使え無ぇ姫さんより、ナンボもマシじゃねぇか」

なぁ、と唇を吊り上げた男が房良へと眼を向けた。

「その通り、ですねっ!」

言葉が先か剣戟の響きが先か。
義豊があれほど苦戦していた剣餓鬼がみるみる壁際に押されてゆく。
防御を考えず繰り出す太刀は同じだが、明らかに義豊よりも動きも見切りも
数段上の房良相手では僅かな切っ先すら掠りもしない。

「す・・・ごい・・・」

義豊の止血をしていたセイの手が止まり、ただ房良の姿を追い続ける。
細身の太刀の一振り毎に風が舞う。
けして動きやすいとは言えないだろう宿直のための衣冠の装いだというのに、
まるで身軽な狩衣を纏っているように動きに遅滞は見られない。


『あの妖物は呪によって作り出されたもので、元はただの札だ。体の一部を大きく
 欠損させれば呪の効力は失せる。さすれば俺が呪を返す。わかるな?』

結界を破る前に一が語った言葉を脳裏に浮かべた房良が一歩踏み込んだ。

――― ヒュンッ

大きく薙いだ房良の太刀が剣餓鬼の太刀を持つ手を断った。

――― ゴトリ

鈍い音と共に青黒い腕が床に落ちる。

「一殿っ!」

呼びかけと共にそれまで恒秀の動きを牽制していた一が懐から呪言の書かれた
札を取り出し、棒立ちになったままの剣餓鬼にそれを押しつけた。

「降魔伏邪、吾奉太上老君、急急如律令!」

澱んだ気を振り払う凛とした呪が轟き、ぐずぐずと膝を折った剣餓鬼の姿が
一筋の煙となって空に溶け消えた。


現実を見るまいというのか、烏帽子を跳ね飛ばして髪を掻き毟っている
恒秀の腕が一に掴まれた。

「お前は検非違使に引き渡す」

無表情な陰陽師の言葉に男は悲鳴のように言い募る。

「わ、私は内大臣の身内なのだぞっ! お前などに」

「内大臣はもちろん、左右の大臣からの許しも得ている。外法師を使っての
 呪殺など許しがたい事。助け手は無いと心得られよ」

温度の感じられない言葉に男はとうとう意識を失い、床に崩れ落ちた。



「ったく根性の無ぇ野郎だな。その程度でこんな大それた事を考えるんじゃ
 無ぇってんだ」

「そうですね・・・」

手当てをしてもらいながら義豊が言い放った言葉に頷いた房良の視線は
セイに向いている。
少し俯き加減のふっくらとした頬は青白く強張っていた。
その原因は義豊の傷や人ならぬモノを見たせいではないだろう。
小さな白猫が気遣わしげにセイの周囲をうろうろしているのが、
ようやく房良の眼にも映っていた。

「義豊。・・・ご苦労様でした。姫を守ってくれた事に礼を言います。
 手当ての続きは邸に戻ってから、きちんとして貰ってくださいね」

「承知・・・」

セイから離れて房良の足元に膝をついた義豊が頷いた。
房良が、または義豊が、相手を「総司、歳三」ではない名で呼んだ瞬間に
それまでの心安い幼馴染の関係から主従の関係へと戻ると決めたのは
いつの事だったか。
もはや思い出せないほど昔からの習慣に互いの間で違和感は無い。

けれど他の二人は違った。

「くっ、くくくくっ、面白いな、アンタ達は」

「ふっ、うふふふふっ。本当に・・・」

セイと一が顔を見合わせて笑った。










「ふぅ・・・・・・」

広縁に出て階の一番上に座り込んだセイが溜息と共に空を見上げた。
墨で塗りつぶしたような艶やかな黒天に真珠のような星々が煌き、
薄く棚引く雲を纏った月が天空の守護者然とそこに在る。
遥か高みから自分を見下ろすその輝きに、一人の男を連想して
セイが小さく首を振った。



セイを狙ったと思われる男を排除してから十日が過ぎた。
自分が原因で父や兄が命を落としたのだと申し訳無さに沈んでいた所へ
房良から文が届いた。


『春の着る 霞の衣 ぬきを薄み 山風にこそ 乱るべらなれ
(春の着る霞の衣は横糸が弱く薄いので、まさに山風によって乱れているようだ)

 貴女の心を乱す山風が、闇を払った私なら良いのですが。
 もう何の不安もいりませんよ』


山風にかけたのか、淡い若緑の薄様に綴られた和歌は蕾の多い桜の枝に
結ばれていた。
それを乳母から伝え聞いた一の姫である姉姫が、セイに代わって優雅に
返書を書いて送り返すのも人事のように眺めていた。
溺愛している妹姫のところへ、家格の遥か上である房良から突然の文が届いた事に
姉姫はたいそう驚いていたようで、あれやこれやと問い詰められるうちに、
沈みきっていた気持ちも幾分紛れ、ようやく他の事へも心を向ける余裕が
生まれてきたかもしれない。
房良からの文は自分を元気づけるためと、恒秀に関する全ての処置が
終了したという知らせだろうとセイは思った。
姉姫たちが騒ぐような艶めいたものではないというのに・・・。


左近衛府の少将、藤原房良。
尊き主上の御身近くに侍る事もある男が、嫌悪感も持たず下々の者と接していた。
良順という薬師との会話に違和感が無かった事が不思議で可笑しい。
もう二度と会う事も無いだろう男を思い出しながらセイが小さく笑った。
あの時、「名を教えて欲しい」と言われた時に真名でなくても構わないと
言われたにも関わらず、咄嗟に真名を告げてしまった。
自分でも不思議な事に、あの青年に真名を呼んで欲しいと思ってしまったからだ。

悪戯っ子染みた顔。穏やかな笑顔。背筋が震えるほどの鋭い表情。
そして冴え渡る真冬の凍風のような剣。
どれも鮮明に思い出せる。

「房良様・・・・・・」

小さく口の中で呼んでみる。
今にも暗い庭先からひょっこり顔を出しそうだ。
ふふっと笑みを零して繰り返す。

「房良様。房良様。左近の少将、房良様・・・」

「はい、何ですか?」

ふいに聞こえたその声と共に庭に漂っていた桜花の香りに菊花が混じった。




「そのように可愛らしい声で私を呼んでくださるというのに、文でのつれなさは
 十日も貴女を放っていた私への恨みの心ですか?」

花弁を散らす庭先の桜木の影から現れた男が、少し拗ねたような口調でセイを責める。

「え?」

今の今まで思考の中心にいた男が実体を伴ってこの場に現れた事が信じられず
セイが瞬きをした。

「『吹く風に あつらへつくる ものならば このひともとは よぎよと言はまし
 (吹く風に注文をつけることができるならば、この一本の木は避けて吹いてくれ)』

 私は貴方など何とも思っていないのだから、かまわないでください・・・とは、
 随分情の無いお言葉だと思われませんか?」

「な、何を?」

「私の和歌へと貴女がくださった返歌ですよ」

房良の言葉が理解できないとばかりに首をこてんと横に倒しているセイの表情を
ジッと伺っていた男が吹き出した。

「あっははは、やはりそうでしょうね。あの返歌は貴女ではない。
 たいそう優雅で華やかな手蹟を見てすぐにわかりましたよ」

「そ、それは確かに私の手蹟は優雅ではありませんけれど、酷いですねっ!」

ぷっと頬を膨らませたセイを見る男はまだ笑っている。

「もうっ、笑いすぎですっ!」

「ふふふっ、すみません。きっと姉君である一の姫が書かれたのでしょう。
 貴女の手蹟だったらもっと瑞々しく伸びやかだろうと思っていたのですよ」

確かに周囲からは若い姫にしては自由奔放な文字を書くと言われているセイだ。
文字は人を表すというこの時代、それを正確に察し取っていた
房良の言葉に頬を染めた。

「そ、それで今日は何のご用なのでしょう」

頬の熱を誤魔化すように小さく咳払いしたセイがきちんと座りなおして
房良に問いかけた。
こんな刻限に人目を忍ぶように現れたという事は、先日の事件に関して
周囲に知られたくない話があるのかと思ったからだ。

微かに不安げなセイの面に笑みを返した房良が階を上り、
広縁にいるセイの前に膝をついた。


「用は・・・あれほど言ったというのに、このような端近にひょいひょい出てくる
 危なっかしい姫君が忘れられなくて・・・」

「房良様?」

突然艶めいた男の声音にセイが怪訝な面持ちをした。

「ああ、心配はいりません。きちんと一殿に吉日を占っていただいてますから」

「吉日って?」

きょとんと瞳を見開くセイのあどけなさに房良が苦笑しながら軽い身体を抱き上げた。

「婚儀の吉日ですよ」

「きゃあっ! って、え? 婚儀? え? 誰の?」

急に空に浮いた不安定さに悲鳴を上げたセイは、予想もしなかった言葉に
混乱するばかりだ。

「貴女と私のに決まっているじゃないですか。求婚の歌にお返事も
 いただけましたし、ね。

 『宿りして 春の山辺に 寝たる夜は 夢の内にも 花ぞ散りける』
 (春の山辺の宿に泊まって眠る夜は、夢の中にも花が舞い散る)

 夢の内にて確かめさせてくださいね、セイ」

「えっ? えええっ?」

男から送られた文に返歌をするのは思いを受け入れるという女側からの意思表示。
そういえば姉姫が房良に真名を教えたのかとくどいほど尋ねていた。
恐らく房良からの文にセイの真名が書かれていたのだろう。
つまりはセイが房良を夫にする事を願ったと思われたのだ。
姉姫の返した歌も見方を変えれば『世の中の冷たい風からこの私を守ってくださいね』
という意味にも取れる。

そしてセイの知らぬ場所で婚儀の支度は着々と進められ、今の状況となった。


「大丈夫。守りますから」

様々に厄介事を抱えているこの破天荒な姫が気になって仕方がないのだから。
遠くで気を揉むよりも、できる事なら手の中に。


「・・・約束ですよ?」

おっとり見せているくせに突然鮮やかな閃光を放つ、風変わりなこの男に
惹かれてしまったのは事実なのだから。
傍でもっとその内を知りたいと思う。




恥ずかしげに微笑んだセイの言葉に房良の口元が緩く弧を描き。
桜重ねを纏った少女を朽葉緑の直衣が包み、御簾の奥へと消えていった。

後に残ったのは月に照らされる広縁に散り広がる桜の花弁と、
微かに薫る菊花の香。

   


春の着る 霞の衣 ぬきを薄み 山風にこそ 乱るべらなれ    23 在原行平

吹く風に あつらへつくる ものならば このひともとは よぎよと言はまし    99 読人知らず

宿りして 春の山辺に 寝たる夜は 夢の内にも 花ぞ散りける    117 紀貫之

文中の和歌三点は『古今和歌集』からの出典です。